1974年の年末、ひどい脱力感と体のダルサを感じながら忘年会、新年会の毎日が続きました。近所の開業医に診てもらった時には、前の晩に飲んだお酒が朝になっても抜けきれていない状態で、肝炎と診断されました。「安静に勝る薬はない」と言われた時代で、入院しての点滴による治療でしたが、病への恐怖や働けなくなった苛立ち、生活への不安などが押し寄せるなかでの治療結果は最悪でした。この治療が合わないのであれば「他の治療法」をと考えるようになりました。新興宗教やヨガの集会にも参加し、健康食品を紹介されれば説明会にも参加して資料やパンフレットで検討しました。また東洋医学の入門書や民間療法の本を読みあさり、自分なりの治療法と健康法を真剣に探し始めました。

私たちの体は、70%が水分で構成され日々入れ替わっており、残り30%も毎日の食事で摂取したものによって造り替えられています。健全な心や真の健康体は、自然で清らかな水を飲んで体内に取り入れ、バランスのとれた自然に近い食品の愛情がこもった料理を食し、初めて得ることのできる結果と知りました。まさに、今で言う「水育」と「食育」です。そして、私のこの病は食暦そのものだったのです。飲酒に喫煙、食べたいものだけを食べていた食習慣・生活習慣が食品の質に関しては無関心を呼び、栄養のバランスの崩れた食事を続けさせました。この「食暦」が私の体質の弱いところの肝臓に“肝炎”と言う病として現れた当然の結果(食暦=病暦)と知りました。そして、私の子供達がこの悪い食習慣に慣らされ孫やその子孫にまで伝わる食伝(遺伝と同じように悪い食習慣が引き継がれて特定の病気として伝えられること)へと発展することだけは避けなければと考えました。これらのことを妻と話し合って「水育」「食育」「食暦」「食伝」を配慮した食生活に切り替えました。治療も主に食事療法を中心にしたいため主治医の反対を押し切って退院し、投薬も漢方薬と自分自身で選定した健康食品に変えたのです。2週間毎の血液検査の結果は少しずつ快方に向かっていました。「努力の甲斐が合った」と喜び漢方医に報告すると「良くなってはいるが働けるようになるには、まだ数年は掛かるよ!!」と診断されて、最初に肝炎を告げられた時より数倍大きなショックを受けました。

失意の毎日が続くなか、京都新聞の夕刊に「慢性病には断食療法」の僅か2行の広告を見つけました。藁をも掴む思いで資料を取り寄せ、我に返ったときは断食道場に入寮していました。7日の減食・14日の本断食、7日の復食を通して多量の水を飲むことだけを心掛けました。2ヶ月後には5日断食、その2ヶ月後には3日断食と西式健康法の指導者の言う通りに実行しました。指導に従わなかったところがあるとすれば、水を多く飲んだことぐらいです。64kgの体重が51kgまで落ち、日増しに脱力感や体のダルさは抜けていきました。今までに経験したことのない体の軽さは、まるで宙に浮いて飛んでいるような感覚でした。血液検査は正常値内となり、主治医も異常な程の回復ぶりに疑問を持ち、初めて私の行った治療法を真面目に聞いてくれました。そして、主治医は「貴方の病気に効果があったからといって、こんな厳しい療法を病気持ちの人に薦めてはいけませんよ、もしものことが起こると大変ですから」と厳しく助言をしてくれました。

   私は、今回の断食治療の目的を「断食で肝臓に負担を掛けないようにして、水で肝臓を徹底的に洗うこと」と決めていましたので、体が受け付ける限り水を飲みました。断食が始まって3日目までは水が胃に溜まると吐き気を催してほとんど嘔吐してしまうのですが、それでも飲み続けました。私にとってこの療法は人生の再出発をさせてくれた恩人であり、水はその恩人から受けた輸血のようなものと思っています。そして、私にとってこの療法は「断食療法」ではなく「水飲み療法」と言う認識なのです。  健康を取り戻して呉服の販売の仕事に復帰し、1977年4月に「株式会社 京呉服 八坂」を京都市山科区に設立しました。その一方で「水育」「食育」をベースにしたビジネスを生涯の仕事とする生き方を考えるようになり、その思いは日増しに大きくなっていきました。当時「水育」については一般の人々の話題になる事もなく、まだ勉強不足だった私が「水が健康に大きく関わっています」などと話し出すと、話を聞いてくれるどころか白い目で見られました。それでも「水育」を仕事につなげたいと考えていましたので浄水器がその商材として最初に浮上しました。私の家でもヤシガラ活性炭をステンレスの容器に詰めただけの簡単な浄水器を使っていました。ですから浄水器を使うと水が美味しくなるだけでなく、その水で洗って炊いたご飯や料理までが美味しくなることは体験済みでした。水や料理を美味しくする理由を調べたところ、美味しくしているのではなく水道水中の塩素(遊離残留塩素)が水をマズク感じさせ、食品に含まれるビタミン・ミネラルや旨味成分を中和して味を落してしまうことが分かりました。栄養も減らしていたのです。これこそ「水育」「食育」に直接つながるビジネスになると確信しました。そして、「水育+食育」のための浄水器の販売・「水育+食育」のための浄水器の製造・「水育+食育」のための浄水器の開発と新たな挑戦が始まったのです。「食育」に関するビジネスは、すでに大きな市場が開けていて特に健康食品はハヤリの商材でハヤリのビジネスでした。私の友人や知人の中にも健康食品の製造や販売に関わっていた人達が何人かいました。その中の一人に呉服業の店の一角を提供し、呉服商の手隙の時には、健康食品の販売の手伝いをしながらの「食育」の勉強をさせて頂きました。

 1983年、東京のある企業の依頼で健康食品と浄水器の販売の会社を立ち上げ、初年度に5億円を売り上げました。その売上の70%が浄水器の売上でしたので、次年度からは交換カートリッジのリピートだけで会社の運営費が賄える計算が成り立ち、ほっとしていました。ところが交換カートリッジの年間リピート率は25%以下という厳しい現実で計画が大きく狂いました。リピート率を上げるために、レンタルに近い営業企画を実施するためレンタル向の商品を大量に購入して、そのメーカーに販売用の商品と合わせて預けておりました。そんな折に、そのメーカーが和議の申請をして倒産してしまい商品の受け取りも裁判での決着となりました。結局、この新会社の継続も不可能となり株主の意向と好意のお陰で倒産を免れたものの解散となりました。「水育」「食育」を追いかけて失意の中にありながら家業の呉服商に戻れず、浄水器のビジネスに復帰することばかり考えていました。水と健康をテーマにした講演会などの講師をして、その講演料で生活を支える苦しい日が続きました。裁判が終り債権として浄水器を受け取りましたが、時代遅れとなっており一度に売却して再スタートの資金にすることはできず、少しずつお金に換えて、チャンスが来るのを待ち続けました。              1988年秋頃、友人を介して浄水器の製造の依頼を受けることになり、メーカーとしての再出発ができました。1990年8月、「株式会社 京呉服 八坂」を「ベーシック株式会社」と社名変更し、浄水器メーカーとしての本拠を湖国・滋賀県(現在地)に移して製造を始めました。自分の病を通して知った「水育」と「食育」、その「水育」と「食育」に貢献する商材は浄水器しかないと信じて業種転換までした以上、誰にも負けないような浄水器を造りたいと思ったのです。良い浄水器とは私達が毎日利用している水、すなわち水道水を我々人間の健康に役立つ水に変える機器と考えたのです。そして、人間がこの地球上に最後に登場した生物でありながら、この地球の水に適合したからこそ一番繁栄したのだと考えれば、開発の目標は「水道水を自然の水に近づける浄水器づくり」とはっきりしてきました。人間の繁栄が自然を汚し、汚れは水に集約され、私たちの健康に害を及ぼす恐れがあると言われていました。しかし、水道水においては厚生労働省の定める水質基準に従い、浄水場で除去し供給されています。ところが、供給の手段が水道管による給水のため消毒用に投入される次亜塩素酸ナトリウムが塩素として水道水中に残り、古くなった水道管からは溶けだした溶解性鉛が残留します。集合住宅などは受水層や高架水槽の汚れも再汚染物質となって残留します。この浄水場から給水された後に発生する塩素や溶解性鉛、再汚染物質は各家庭で除去するしかありません。それが浄水器の役目です。その上「水育」「食育」を主目的に開発を進めると、食品の洗浄に使用しても不便を感じないほどの通水量で、塩素を強力に除去する浄水器となり、ようやくそれを完成させました。この蛇口直結型の浄水器は日本のバブル期とも重なり順調に売れていきました。出荷台数も増えてお客様にお使い頂く時間も長くなるにつれて、機械的な不具合や使い勝手の悪さはクレームとなって返ってきました。壊れにくく使い易い浄水器への改良に努め、この機種なりの完成形に近づいたころ機能的な欠陥に気づきました。

 一定の方向に水を流して浄水するため(1)ゴミを取れば取るほど目詰まりを起こして水が出難くなる(2)目詰まりが始まると水路(水は通りやすいところだけを通り路をつくる)ができてカートリッジの寿命が短くなる(3)逆汚染(空気中の落下菌やハネ水中の菌が浄水の出口に付着して汚染する)で浄水器内が細菌だらけになる。この大きな三つの欠陥は機械構造上に発生するもので全ての蛇口直結型の浄水器に共通しているものでした。この三つの欠陥を同時に解決する方法は、浄水器内に水道水を逆流させる機能をもたせるしかないと考えました。「完全逆流方式」蛇口直結型浄水器の開発の始まりです。蛇口の先に附ける浄水器だけに大きさや重さには制限があり、製造原価も制約されるなかでの試行錯誤の毎日が続きました。考えては作図し、作図しては考えることを繰り返しているうちに、浄水の水路を作る部品に加えて逆流洗浄に切り替えるための部品が必ず必要で、その部品の分だけ形状は大きくなり、重量は重くコスト高になるこに気づきました。この頃は“軽薄短小”が商品開発の合言葉になっていて「大きくて、重くて、高いものなど造っても売れない」と、開発を諦めるように自分自身に言い聞かせていました。しかし、私自身も組み立て作業に加わっており、浄水器に触れない日はなく、触れれば触れるほど「逆流洗浄機能の開発」への思いは強くなっていきました。ある時、切り替えレバー(水道水と浄水の切り替えの為のコック)が付けられていない中間品が入った籠に目がいきました。その籠には中間品を出来るだけ多く入れるために上向きと下向きを交互にした形で並べられていたのです。私には、それがまるで浄水筒(カートリッジを装填している容器)が180度回転して下向きになった形に見えました。「これだ」直感的にそう感じました。切り替えレバーのない中間品を手に取り、浄水筒を持って上下に回転させると即座に頭の中に機械構造と水の流れが描き出されました。あの時瞬時に思いついた機構「水道水の取入口に対し180度の角度で浄水の出口を設けてやり、浄水筒と一体にして180度回転させると水は逆流する」が基本構造で一部の変更もなく、特許に出願され商品化されています。その上、この切り替えレバーのない構造はコンパクトでシンプルな形の浄水器となり、使う人にとっても使い易いものになることが想像され、部品の数が少ないため重量が軽く、コスト安になることがはっきりしていました。

 1990年に世界の10ヶ国に特許を出願して取得できました。中国は期限切れとなったため2005年に内容を充実させて実用新案として出願し直しました。浄水器としての商品化は終えていますが、今日なお、勉強し研究して判ったことがらを慎重に検討して、その時その時に重要と思われる項目の解決に努め「水育+食育」に最適な浄水器の完成形を求めて改良改善しています。合わせて、龍谷大学の瀬田学舎に研究室を置き、教授の指導を仰ぎながら、逆流洗浄機能に適したカートリッジの開発や付加価値機能の追加を進めるために日夜奮闘しています。浄水器の販売から始めて製造・開発のメーカーになった今日でも、私にとりましては「水育」「食育」の追求が本来の目的で、浄水器はその手段でしかありません。しかし、「水育」と「食育」を真剣に見据えていくと、手段としての浄水器の役割が大変重要なことに気づかされます。これからも「水育」「食育」「食歴」「食伝」に役立つ浄水器づくりに夢を掛けていきたいと思っています。
    

お断り
肝炎に関する部分は、「水育」をお伝えするために療法の柱となった「断食療法=水飲み療法」だけを書き他の療法は省きました。しかし、完治したのは主治医を始め各分野の先生方の指導で実施した治療も含めた総合力と思っています。これを読まれて「断食療法」を検討される方は必ず主治医に相談して下さい。